校庭の緑

私が通った小学校には

200メートルトラックが

取れるくらいの広い校庭があった。

そこまではよくある事。


だけど、ひとつ

他の学校とは違う事があった。


それは、校庭の一角に

クローバーが植えてある場所が

あった事である。


そこは一年生から六年生まで

たくさんの生徒が遊べる程の

広い緑だった。


校庭を造った際に

わざわざ考えた場所だったようで、

大切に管理され、水を撒く時期や

子供達が入ってはいけない時期が

設けられていた。


だけどその管理の目的は、

子供達がその上で寝転んだり

思いっきり飛び跳ねたり出来るよう

クローバーを維持する為のもので、

とにかくその場所は

子供達の物なのだった。


毎年、先生から

「今日からクローバーの上で

遊んで良し」という

宣言がなされると

私達は喜んでそこに足を踏み入れ、

寝転んだりおしゃべりしたり

クローバーで首飾りを作ったり

男子はでんぐり返しをしたりと

休み時間ずっと楽しんだ。


もちろん校庭には、鉄棒やブランコ

滑り台といった

他の遊具もあったけれど

一面のクローバーは

ただ何もせず

座っているだけの時間も

受け止めてくれる場所だった。


卒業式で六年生が言う

呼びかけの中には、

「クローバーの緑が目に染みた、

広い校庭...」という言葉が

あったくらい

校庭のクローバーは

その小学校の1つの個性として

扱われていたと思う。


しかし私が卒業してまもなく、

クローバーの場所は潰された。


緑の上には土が盛られ

高低差のある凸凹が造られて、

アスレチック遊具が設置された。


その当時はまだ珍しい

アスレチック。

子供達は大喜びで遊んでいた。

親御さん達にも好評だったと思う。


でも私はさみしかった。


クローバーの上では

運動したい子も

静かに過ごしたい子も

同じ様に居場所があったなぁと

思った。


もちろん

スリルのある遊具のおかげで

勇気が湧いたり、

体が育てられる良さは

いっぱいあると思う。


だけど、

「こうしなさい」

「こう頑張ってみようね」と

少なからず緊張を強いられる授業。

その合間の休み時間。


何もせずに草の上に寝転び

チャイムが鳴るまで

流れる雲を見ていた事。


泣きたい時、

(このクローバーが途切れる

向こう側までには

笑顔になっている)

なんて暗示をかけ、一歩一歩

足元の緑を見ながら歩いた事。


その時、何を思っていたのか

何が悲しかったのか忘れているのに

目に映った風景と、クローバーに

自分を受けとめてもらったという

思いはずっと消えずに

今も残っているのだ。


帰省して

小学校の校庭を見る機会があると

(あっ!ない...)と

毎回、戸惑ってしまう。

そしてゆっくり

(そうだった)と自覚する。


しかし何回自覚しようと

盛岡に戻って

心に思い浮かべる校庭の一角は

やはり緑色のままだ。


とっくに風景は変わったのに

今だにあの校庭には

クローバーが揺れている。

いつでも私を

受けとめてくれている。


そんな気がしてならない。


手を振ってくれてるみたい

話しかけてくれてるみたい


草が揺れただけなのに

そう思うのは


甘く都合のいい夢なのかも

しれないけれど


その夢は持っていた方が

いいと思う


揺れる緑(2025年)


さて、あちこちで

緑の冴える季節がやって来ました。


「お知らせ」の所でも

お伝えしておりましたが、

この絵は、6月27日〜7月5日まで

千駄木にあるギャラリーKINGYOでのグループ展「夏至を過ぎて」に

展示されています。

ご高覧頂けたら幸いです。